
プロフィールページをご覧くださりありがとうございます!
まずは、私の物語をぜひ読んでいただければと思います。
◾️はじめに…
人生には、どんなに努力しても自分の力ではどうにもならない
悲しく辛い現実が訪れることもあります。
どれだけ真面目に正しく生きていても
自分や家族に降りかかる不幸を避けることができず、
理不尽だと思える現実がやってくることも…。
私の子どもは、2歳半で小児がんを発症しました。
自分の子どもががんになるなんて、誰が予想できたでしょうか?
大切な家族が病気になると、人は絶望とも言えるような
今まで感じたことのない悲しみに打ちひしがれることを、私は知りました。
長期間にわたる治療の日々は、出口の見えない暗いトンネルを歩いているかのようでした。
「あの経験があったから今がある」と胸を張って言えるほど
簡単に割り切れるものではありませんが
そんな私が今は、カウンセラーとして活動しています。
私がなぜカウンセラーの道を歩むことになったのか、少しお話させていただきます。
◾️幼少期から高校時代 人生の挫折とも言える数々の試練…
私の両親は、幼い頃から喧嘩ばかりしていました。
「喧嘩が始まりませんように…」と怯える日々。
喧嘩が始まると部屋にこもり、本当は聞きたくもないのに
ずっと怒鳴り合う声を聞いていました。
自分が聞いていないと、取り返しがつかない事態になってしまうのではないかと思い
不安でたまらなかったのです。
喧嘩のたびに胸が苦しくなるほど辛かったことを覚えています。
両親や兄弟の機嫌を敏感に感じ取るような、顔色を気にする子供に育った私は
次第に「自分の本当の気持ち」を見失っていきました。
もちろん、自己肯定感の低い子供になっていたのは言うまでもありません。

思い返すと、私の人生の暗黒期は高校時代から色濃くなったように思います。
ずっと憧れていた高校に入ったものの、
担任の先生に思いもよらず目をつけられるようになったのです。
全校集会でみんなの前で叱責され、とても嫌な思いをしたことが今でも忘れられません。
理由は今思えば本当に大したことではありません。
他のほとんどの生徒が私と同じことをしている中で
「なぜ私だけがこんなにも怒られているのだろう?」と全く理解できませんでした。
「私のことを正しく見ようとせず、話を聞こうともしてくれない…」
そういった不信感がどんどん募り、担任のことも学校自体も嫌いになっていきました。
また、とても仲の良かった友人とはクラスが分かれてから距離ができ
その上、同じ時期に当時付き合っていた彼氏にも振られてしまいました…。
自己肯定感の低い私は、当然のように彼氏に依存していたため
当時の私にとっては大切なものをすべて失ってしまったように感じ
辛くて、毎日泣いているような日々でした。
涙の止め方すら分からなかったのです。
高校生で初めて経験した、人生の挫折とも言える数々の試練…。
私の自己肯定感は、0どころかマイナスに近いほど急下降し
ここから長年にわたって浮上することができなくなっていきました。
周りに話せる人もいなく、自分ひとりでどうやって立ち直ればよいのか
その方法も分からなかったのです。
◾️自分に自信が持てないまま過ごした大学時代
なんだかんだと捻くれたまま高校を卒業した私は
「大学に入ったら人生が変わるかもしれない」と勝手に期待していましたが
他人にどうにかしてほしいという考えが強かったため
大学でも何も大きく変わることはなく、自己肯定感は低いままでした。
自分以外の学生がみんな魅力的に見え、劣等感が強くなる一方でした。
「他人の状況が羨ましくてたまらない…」
そう思うと、自分の存在が恥ずかしくなり、なかなか自分を出せず

結局、孤立していきました。
自分が嫌いで、自分に自信が持てないくせに
誰かに依存したくて甘えたくてたまらない気持ちだけがどんどん膨らんでいきました。
そんな私ですから、もちろん良い恋愛もできず
さらに自己嫌悪に陥っていく負のループから抜け出すことができなくなっていました。
大学生という、人生で最も楽しめるはずの期間を思うように楽しめていない自分のことが
もっともっと嫌いになっていきました。
とにかくずっと、自分の人生を「誰かに変えてほしい」と思いながら生きていた学生時代でした。
◾️社会人 心理カウンセラーへの憧れ
なんとか就職した会社で、初めて自分の居場所ができたように感じ、仕事に精を出す日々が始まりました。
「仕事」という目的を持って生きることで、社会の一員として生きていてもよいのだと思えるようになったのです。
仕事は、頑張れば頑張った分だけ認めてもらえ、褒めてもらえます。
この頃から人に褒められるようになり、やっと自己肯定感が上がってきたように感じていました。
しかし、これはあくまでも「他人の評価」によって自分の価値を決めていたため
自己肯定感の土台がグラグラな、社会人時代の始まりでもありました。
その後、社会人4年目の私は、高校の事務員へ転職することになりました。
まさか自分が大嫌いだった「高校」で働くことになるとは夢にも思いませんでしたが…。
高校では生徒たちと関わる機会が多く、私の存在は「事務の人」として生徒たちにとって身近な存在になっていきました。
そのため、放課後や空き時間に何気ない会話を交わすことが増えていきました。
進路のこと、クラスのこと、先生のこと、部活のこと、恋愛のこと…
生徒たちは何気なく私に話してくれるようになりました。
そして、ふと思ったのです。
私が、先生でも親でもクラスの友達でもない「ただの事務の人」だからこそ
何でも気兼ねなく話せるのだと…。
ああ、もし私の高校時代にもこんなふうに話せる人がいてくれたら、何か違っていたのかな…と思ったのです。
生徒たちを自分の高校時代と重ね合わせ、悩みながらも生き生きとしている姿が本当に愛おしく感じました。
この頃から、「カウンセラーになりたい…」という気持ちが芽生え始めました。
自分自身が心底必要としていた存在に、自分がなりたいと思ったのです。

その後、結婚を機に一般企業へ転職し、子供が生まれました。
育児と仕事、家事をなんとか両立させる日々…。
やりたくもない仕事で認められようと必死に努力するものの、
子供を言い訳にしたくはないけれど、育児が妨げとなり、結果が思うように出ない日々が続きました…。
「また転職するのか…?」
「それとも、自分は我慢を続けて一生この会社に勤めるのだろうか…?」
「頑張っても評価されないのに?」
「私が本当にやりたいことは何だろう…?」
「…カウンセラーになりたい!!」
自分の心の中にずっとあった本音が、ようやく聞こえた瞬間でした。
自分の人生でやりたいことはただ一つ
誰かの悩みに寄り添う存在になりたいということでした。
学校の事務をしていた当時の気持ちが、また鮮明に思い出されたのです。
…自分の夢に素直に向き合おうと思った瞬間でした。
この時、32歳。二児の母
◾️カウンセラーを目指して 忙しくもやりがいのある毎日…

家事、育児をこなしながら心理学やカウンセリングについて学ぶ日々が始まりました。
数年後を見据えて、心理学とカウンセリング理論に加え
メンタルトレーニング理論やその他のスキルも学びました。
心理学を学ぶうちに、必然的に自分の内面や過去のトラウマと向き合うことが増え、
次第にありのままの自分を受け入れることができるようになっていきました。
カウンセリング理論も、すべてが私にとって非常に興味深く自分の人生にとって必要な知識だと心から思ったのです。
「ずっとずっとやりたかったことを、今やれている。」
「夢に向かって進んでいる…」
そう感じた時の喜びは、今までの何倍も、生きる活力になりました。
自分にはまだ可能性がある、素直にそう信じることができたのです。
◾️次男の体調不良、がん宣告
心理学を学びながら、充実した生活を送っていた34歳。
やりたいことに突き進んでいる自分の人生が素直に楽しいと思えていたこの頃。
毎日忙しいけれども充実していると思える日々でした。
そして、この年の初めに三男を出産しました。
一週間の入院後、三男と共に退院しましたが、年末から次男の体調不良が続いており
退院後も次男の発熱やさまざまな異常に悩まされる日々が続きました。
その後すぐに、次男が歩けなくなりました。
小児科で診ても原因がわからず
「歩かないのは心配だから、大学病院へ行って。」と言われ、紹介状をもらって市立病院へ向かいました。
次男はそのまま検査入院となりましたが、授乳中だった私は付き添えず、夫に付き添ってもらいました。
「なんでもないだろう、大したことではないだろう」と思っていましたが、正直、そう思いたかっただけでした。
インターネットで検索をすると、どんどん怖い情報が目に入ってきました。
私たち家族には無縁だと自分に言い聞かせ、考えないようにしていましたが、実際は怖くてたまらなかったのです。
翌日、夫から電話がありました。
「落ち着いて聞いて。次男は白血病だって。これから大きな病院へ転院することになった。」
頭に入ってきた言葉はすぐには理解できませんでした。
「受け入れられないよ。」
「誰か嘘だと言って!」
「次男は死んでしまうの?」
「次男と私たち家族はこれからどうなってしまうの?」
たくさんの不安が私を襲い、これからの生活が全く想像できませんでした。
絶望的な状況の中、思考もまとまらないままでしたが
他の子どもたちの生活があることを考えると
泣いてばかりもいられませんでした。
感情はさておき、増えたタスクを必死にこなしました。
心が落ち着かないまま、泣きながら役所へ行き、三男の保育申請をしました。
まだ生後1ヶ月も経っていない三男をすぐに預けることはできませんでした。
夫には仕事に行ってもらわないといけないため、祖母が家に寝泊まりし、サポートしてくれることになりました。
そして、私の長期付き添い入院生活も始まりました。
◾️入院〜治療1ヶ月
私の淡い願いも虚しく、白血病と言う診断結果と生存率が示され、すぐに治療が始まりました。
「次男は絶対に治る!」と自分に言い聞かせ、心を強く持とうと決意し、病院での日々を過ごしました。
この日から、我が家の生活は大きく変わりました。
家族全員が手探りで毎日を過ごしていました。
家に残している長男、三男、夫、祖母はなんとかやっているだろうか…。
心配しても仕方がないし、何もしてあげられない日々が続きました。
皆それぞれが、その日をなんとか終えることで精一杯でした。
次男は、がんの影響で歩けず、車椅子生活を送っていました。
お風呂に入れるのも一苦労でした…。

さらにイヤイヤ期が重なり、慣れない病棟での生活は何をするにも本当に辛かったです。
入院生活はルールや制限が厳しく、付き添いの親への配慮もほぼありませんでした。
特に辛かったのは、付き添い家族には食事が提供されないことです。
差し入れを持ってきてくれる余裕もなく、私は三食をコンビニで済ませる生活が続きました。
加えて、大部屋での生活のストレスもありました。
どこにいても他人の目があり、プライバシーが全くない状態でした。
閉鎖的な空間で、イヤイヤする次男をなだめるために叱るしかできず
自分のダメ育児を晒しているようで本当に辛かったです。
治療に向き合っている子供に優しくなれない自分は、なんてひどい親なのだろうと、自信を失い、眠れぬ夜を過ごしました。
それでも、次男の治療が順調に進んでいることだけが私の中で唯一の救いでした。
◾️治療開始2、3ヶ月
順調に治療が進んでいたはずの次男ですが
第2クールの治療開始を前に10人に1人の割合で起こる合併症にかかってしまったのです。
白血病にかかる割合だって、小児人口10万人に対して3〜4割と珍しいものなのに
合併症まで引き当ててしまうのか…と、本当に絶望したのを覚えています。
すぐに治療を進めることができない。
合併症による治療の遅れの間にも、がん細胞は増え続けている…。
その現実に頭がどうにかなりそうでした。
その後、なんとか状態は持ち直し、第2クールの治療が開始されましたが
この合併症が今後の再発率にも影響を与える恐ろしい出来事として
今でも私の心にしこりのように残っています。
治療はその後順調に進みましたが、私自身の病院生活のストレスもピークに達していきました。
家を守ってくれていた祖母が過労で倒れ、救急車で運ばれたのもこの頃です。
ほぼ同時に、私のメンタルも崩れていきました。

同じ病気で治療している他のお子さんたちは順調そうに見え、
自分たちだけがどんどん「うまくいかないループ」
すなわち「次男が助からない結末」へと陥っているような気がして、涙が止まらなくなりました。
誰かと比べることではないと分かっていても、どうして自分たちだけがうまくいかないのかと落ち込み
どんどん悪い妄想が膨らんでいきました。
病院で私は、たった一人、惨めに感じていました。
「…そういえば、診断結果を聞いてから、ずっと泣いていなかった。」
辛い気持ち、病院での不自由な生活に対するストレス、病院への不満、合併症への怒り
そういった気持ちをどこにも誰にも吐き出せず、ずっとずっと溜め込んでいたことに気がつきました。
「誰か大丈夫って言ってよ!!」そう心の中で叫んでいました。
◾️治療開始4、5ヶ月
最初の3ヶ月をなんとか耐え抜き、その後は治療の合間に何度か一時退院することができるようになっていました。
家族が揃って一緒に暮らせることがこんなにも幸せなことだと、心の底から実感できました。
この頃、次男は再び歩けるようになり、病気が少しずつ治ってきているように感じられ
次男が元気を取り戻していく様子が、私たち家族の心も少しずつ軽くしてくれたのです。
◾️治療6ヶ月〜8ヶ月
そしてまた数ヶ月にわたる長期の入院が始まりました。
家に帰れる日々が続いていたからこそ、ここからさらに数ヶ月が続くのかと思うと、気持ちは重たくなりました。
そして、やはり家を離れることへの不安が募るばかりでした。
「それでもやるしかない。次男が助かるのなら、何でもする」という覚悟は変わらなかったのです。
兄弟たちには我慢を強いる生活になるけれど、頑張ってもらうほかに選択肢はありません。
次男の病気との戦いは、家族全員の戦いでした。
次男はステロイド治療によって、鬱傾向が現れ、再び車椅子生活となりました。
そして、止められない食欲増加。
子どもだから「我慢」が難しいことはわかっていても、その苛立ちは日々募りました。
延々と食べさせるわけにもいかず、親子共に苦しい日々が続きました。
そして、病棟での生活が長くなるにつれて、私たちは次第に他の親子とも話す機会が増えていきました。
親同士で苦労を打ち明け合うようになったのです。
そこで聞いた他のご家族の苦労や痛みは、私たちが抱いていた痛みと同じでした。
「わかる、よくわかるよ。そしてきっと、私たちにしかわからない痛みなんだよね…」
そう思うと涙があふれ、どこにも行き場のなかった自分の気持ちがスッと軽くなったことを今でも覚えています。
「私たちは、孤独じゃない。」
自分の苦しみが誰かに理解されていると感じた瞬間でした。
一緒に戦っているという心強さが生まれました。
この先もつきまとう不安は完全になくなるわけではありませんが、
自分一人で、あるいは自分たち家族だけでこの気持ちを抱えていくことには限界があることに気づいたのです。
ほんとうは、初めから誰かに自分の気持ちや辛い状況をただ聞いてほしかったのだと思います。
長期間にわたるがん治療に立ち向かうためには、自分の気持ちに蓋をして進んでいくことなど不可能だったのです…。
◾️治療9ヶ月目
ようやく本退院が迫ってきました。
次男は見るからに元気を取り戻し、病棟内を走り回るほどに回復していました。
この頃には、病棟で過ごす仲間たちとの信頼も深まり
お互いに日々の大変さを語り合い、時にはお互いの不安にも寄り添いながら
それでも皆で前を向いて過ごす日々でした。
悪い妄想にとらわれていては、自らバッドエンドを引き寄せてしまいそうで
それよりも、今目の前にいる元気な次男と、これからも一緒にいられる日々だけを信じようと思いました。
心の底から毎日を大切に過ごそうとする方が、何倍も意味のある人生を送れるのではないだろうか…
私は心から、そう思えるようになっていました。


◾️最後に・・・
本退院を迎え、急に病院の外に放り出された私たち…。
あんなに帰りたかった家での暮らしは、それはそれで大変なことも多かったです。
元の暮らしには完全には戻れないというのが現実でした…。
でも仕方がない、病気の子どもを抱えるということは、そういうことなのだと。
それでも、こんなに大変で愛おしい毎日だと思えるのも事実なのです。
再発の恐怖が全くないわけではない、それもわかっています。
それでも前を向いて生きていかなければならないのです。
大変だった日々を乗り越えたからこそ、今という時間を大切に生きようと心から思えるようになったのです。
「明るい未来だけを信じて進んでいったっていいでしょう?」
自己肯定感が低かった私が、誰かに依存したくて、誰かに人生を変えてほしいと願っているだけだった私が
人生の困難に立ち向かい諦めずにここまで来られたこと。
きっと、自分ひとりでは無理だったかもしれません。
病棟でのストレスフルな生活の中で、次男に優しくできず、ダメ育児を晒していた私…。
そんな私に、ある時夫が言ってくれました。
「こんな状況下では仕方ないでしょう」
そう言われて、私はハッとしました。
「仕方ない」で片付けて良いの…?
自分のストレスが少しも解消されていない、心に少しも余裕がない状態では
子供に対して優しくなんてなれないのだと気づきました。
「自分は疲れているから仕方ない。」
「子供のことを真剣に考えているからこそ、悩むのだ。」
「お母さんだって、弱音を吐くことだってあるんだよ。人間なんだから。」
きっと誰かにそう言って欲しかったのだと思います。
親になると、たくさんの「こうあるべき」が自分の中に生まれます。
そこから外れていることが、そんなに悪いこと?
…いや、きっとそんなことはない。
理想通りにいかないことは、決して悪いことなんかではないし、
育児においては思い通りにならないことがたくさんあります。
むしろ、それが当たり前かもしれません。
子どもをコントロールしようとすることが育児ではない。
そう思えるようになった時、ダメな自分もまるごと受け止めることができたのです。
夫に言われなければ、そして、その言葉の意味に気がついて自分をまるごと受け止める勇気が持てなければ
私は自己肯定感の低かった大学時代の自分のように負のループから抜け出せなくなっていたかもしれません。
この勇気はきっと「この状況をなんとかしたい、変わりたい。変わらなくてはいけない。」と、
自分自身が強く思ったからこそ生まれたものだと思っています。
「誰かに変えて欲しい…。」と願っているだけだった私が、
ついに「自分で自分を変えていかなければ…。」と思った瞬間だったのです。
さらに、病院で孤独を感じていた時、
「こんなに大変な状況で、こんなに辛いのはきっと自分だけ…。」
「誰に話しても私の辛さは理解されないだろう…。」
「私の大変さなんて誰にもわかってもらえない…私は孤独だ…。」
そう感じていました。
目の前の困難が大きければ大きいほど、視野は狭くなっていくものです。
そういう時にたった一人で考えていても、
だんだんとネガティヴな感情に心が支配されていくだけなのです。
しかし、病院で他の家族と話をしたとき、自分の気持ちがわかってもらえた気がして心が晴れていったこと…
この体験がなければ、きっと私は悩みを誰にも言えずに1人で泣いていただけの高校時代の自分に逆戻りしていたかもしれません。
思い込みや考えすぎが、時に呪いのように大きな力を持つことがあります。
自分一人では気づけなかったり、抜け出せなかったりするものです。
だからこそ、誰かと話をして自分で気が付くこと、誰かに教えてもらって気づくことはたくさんあると思います。
こんな思い込みはさっさと取っ払って、早々に誰かに打ち明けるべきだったのです。
高校時代の自分にも、そう教えてあげたいくらいです。
次男のがん治療は人生においてもっとも辛くしんどい時期でした。
しかし、今振り返ると、その日々が多くの気づきと、人々の優しさ、

そして自分自身と向き合わせてくれる大切な時間だったとも感じています。
「子育ては親育てだよ。」そう言われたことがあります。
本当にその通りなのだと思います。
親である私の方が、この歳でようやっと気づいたことだらけなのです。
人生に意味のないことなど一つもない、
私は心からそう信じています。
◾️あなたへ・・・
そして私はいま、今この文章を読んでくれているあなたの心に、
今、苦しくてたまらないその気持ちに、
きっと誰よりも近くで寄り添っていられる存在になりたいと強く思うのです。
自分ひとりで抱えこむより、誰かと一緒だから頑張れる。
それは決して弱いということではありません。
自信がなくて育児をされている方
他人の育児と比べて落ち込んでしまう方
育児に追われて自分の気持ちが分からなくなってしまった方
育児に追われてやりたい事が出来なくなってしまった方
自分のことを「ダメだ」と思ってしまっている方
自分が嫌いで、自己肯定感が低く、人間関係に悩んでいる方
誰にも言えず苦しかったあなたの気持ち、
誰にも伝わらなくてもどかしかったその気持ち、私はしっかりとお聴きします。
そして、長期的にあなたの心の安定を全力でサポートしていきます。
あなたは決して一人ではありません。
「ダメなママ」なんていない。
子供と家族の幸せを誰よりも願っているあなただからこそ、悩んでいるのです。
あなたの愛は、すでに最高です。
あなたの未来は、今からでも明るく照らされていくことを、私は信じています。
20年間、自分が嫌いで自分に自信が持てなかった、「自称ダメママ」だった私が、
あなたの心に寄り添います。
子供を想うように自分を大切にすることから、幸せな子育ては始まる。
自分を大切にしていいんだよ。そう、あなたに伝えたい。
ママの心からの笑顔が増えれば、それが家族の幸せにつながっていきますから。
あなたの心に少しでも届いたなら、まずはお話ししてみませんか?
